この記事では、和歌山東高校野球部米原寿秀監督の経歴や、米原監督の謹慎理由について調査しました。
和歌山東高校野球部米原寿秀監督の経歴
和歌山南スマートインターに隣接する和歌山県立東高等学校硬式野球部を浮島と訪問致しました。今日は 午後から智辯和歌山高校との練習試合があり 米原寿秀和歌山東高校監督、智辯和歌山 中谷仁監督の皆様から現場のお声をいただきました⚾ pic.twitter.com/icHaXIIjXw
— 木野十三 (@tFwqQpA4kn3bwDn) July 18, 2020
米原監督は、県立和歌山商業高校を経て立正大学へ進学。大学卒業後は民間企業に就職し、3年働いた後、母校の県立和歌山商業で野球部部長、コーチを経て監督に就任。2007年の春には春の選抜出場に導きました。
その後、2010年、軟式野球部から硬式野球部に改編したばかりの和歌山東高校に異動。
米原監督が赴任してきた当初、和歌山東野球部は元気でヤンチャな生徒が多く、熱心な生徒が少なかったようで、部活としてはあまり成り立っていませんでした。部員もなかなか集まらず、入部しても練習に耐えられず辞めていくという状況でした。
そんな中でも米原監督は諦めず、和歌山商業時代の人脈を使って県内の中学生を集め、就任2年目の春に18人の新入生が入部。成績は徐々に上向き、秋の公式戦では初勝利を収めます。その学年が3年になった夏には和歌山県大会でベスト4まで勝ち上がるなど成果が上がっていきました。その後は、県内でも上位の常連校となり、2014年秋には近畿大会に出場2016年秋には県大会で初優勝を飾り、近畿大会に出場。
米原寿秀監督の謹慎理由とは?
米原寿秀監督は2008年の9月頃、県立和歌山商業の野球部員を平手で叩くなどしたため、日本高野連から警告を受けました。それを受け、学校から謹慎処分を受けました。その後は、大問題に発展していない様子でした。指導に熱が入りすぎたとはいえ、手を出てしまったことは反省するべき事態だったと思います。
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